大胆に合宿免許

レーシングカーのお尻もそういうデザインになっていますが、乗用車もだんだんレーシングカーに、似てきたのです。
この章ではレースによって今日の乗用車がどういうふうにつくられたかをお話ししました。
過酷なレースに勝つことによって、運転しやすい乗用車があらわれました。
レースによってこそ自動車は大衆のものになったと言えるでしょう。
自動車の技術がここまで進んで大衆のものになると、第1章で自動車の事故のことをちょっとお話ししましたけれども、そういういろいろな、人間にとってはおもしろくない問題が出てくるのですが、そういう事故のほかにも、自動車はまず道路を大きく変えました。
それから都市の形も大きく変えました。
したがって、我われの日常生活を大きく変えてしまったという問題があります。
そして、道路を変え、都市を変えたにもかかわらず、その道路や都市がいっこうに自動車の安全を考慮してつくられていない。
そのために多くの事故が発生するという問題が生じているのです。
そのうえに、その都市や道路を、時折りめちゃくちゃに高速で走るドライバーがいて、事態をさらに悪くしています。
最後の章で改めてお話ししますが、本当にスピードに命をかけているレーサーは、ふつうの道路では、決して危険な走り方をしません。
もし、そんなことをして、人を傷つけたり、自分も怪我をしたりすれば、たちまちレーサーの資格を若い人たちが、スピードにあこがれる気持ちはよくわかります。
それでしたら、レーサーに入門して、本当の走り方を良く学び、レース場で、誰はばかることなく、堂々と奮闘して欲しいものです。
次章でお話しするように、今日の都市や道路は、自動車や歩行者の安全からはほど遠いものです。
それだけに、我われは、慎重に優雅に自動車を運転するよう努力しなければならないのです。
欧米の後を追う日本のモータリゼーション私か初めて自動車に乗ったのは、いまからほぼ三〇年前のことです。
なぜ乗ったかといえば、それは学問上の問題を解くためだったのです。
私は現代技術の歴史家で、技術が将来どうなるかという可能性を見通すのが私の仕事ですから、三〇年ほど前に、日本の技術の発展は欧米の後を忠実に追うかどうかということを問題にしていました。
研究を進めると、どうしても「忠実に追う」という結論がでてきます。
そうすると次には、日本でも欧米のように自動車が普及するかという問題が生じます。
当時日本の乗用車の生産台数は年間二〇万台に満たないものでした。
いまは七〇〇万台ですから、わずか三〇年のあいだに二〇万台が七〇〇万台になってしまったのです。
年産二〇万台のときに私の見通しが当たるかどうか、考えなければなりませんでした。
まさか七〇〇万台になるとは思いませんでしたけれども、普及することは間違いない。
だとすると、近い将来に少なくとも一〇〇万台近くにはなる。
そうなるかどうかということは車に乗ってみなければわからないと考えて、私は自動車に乗り始めたのです。
むしろ学問的動機で自動車に乗ったのですが、乗ってみたら学問に劣らずおもしろいから、いまだにドライブが趣味だということになっているのです。
自動車が道路をつくるさて自動車のハンドルを握ったとき、この魅力はテレビの比ではない、必ず日本で普及するという確信をもったのですが、それにもかかわらずほんとうかしらと私を動揺させたものは、日本の道路事情なのです。
日本では、明治維新までは馬車は走らなかった。
徳川幕府は車に物を乗せて運ぶということを禁止したのです。
これは武器を大量に積んで大量にどこかに運ばれてはかなわないという恐れがあったからです。
したがって日本の道路は、元来馬と馬かすれ違うだけでいい幅になっていたのです。
だから私か自動車の運転免許証をとった頃は、日本の二級国道はほとんどが一車線です。
ちょうど馬と馬かすれ違いできる。
この一車線というのは、ほんとうに自動車が一台通ると、それでいっぱいなんです。
それがえんえんと一〇〇キロも二〇〇キロも続く。
だから途中に必ず退避場がある。
あれは後からつくったのです。
そこに入りこんで向こうの車をやりすごすということがしばしばだったのですが、一級国道のほうは二車線以上が多かった。
それでも舗装はしてありません。
私か東京から京都へ引っ越したときは、一九六二年三月でしたが、四月にR大学に赴任するので三月末に布団その他を積んで私のスバル450が京都を目指して走りだしたものです。
そのときに日本の国道一号線の全面舗装が完成したのです。
それまでは、とくに豊川あたりに舗装していないところがあって、スバルのように小さな車はまるで嵐の中の船のごとく、上がったり下がったりして走りました。
ホイールベースが短いからそういうことになるのだけれども、船のように揺れるので、とても運転がむずかしかったのです。
しかしその翌年に、早くも名神高速道路が開通しました。
日本はようやく一九六二年三月末で一号線を全面舗装させ、その翌年に栗東から尼崎まで名神高速道路を開通させました。
つまり、自動車が道路をつくり始めたのです。
その二年後、私は自動車隊を編成して三台の車で東北の過疎地の調査に京都から出かけたのですが、二年後でもなおかつ、その頃の道路の悪さと言ったらものすごいものでした。
二級国道はほとんど一車線。
一級国道といえども、一号線は別として、田舎の国道の大部分は舗装されていない。
だから夏には、当時はまだ力~クーラーはなかったから窓を開けて走るわけで、ものすごいほこりが車内にも入ってきます。
宿泊地に到着すると、まずハタ牛でほこりを払うのですが、それはボディーの外を払うのではないのです。
ルーム内のほこりをまず払う。
ルーム内のシートからパネルの上から、ハンドルの上から、いっぱいほこりがつもっている。
それをまずきれいにしなければ走りにくくてしょうがない。
気分が悪くてしょうがない。
だから、まずそのほこりを払う。
それからもうもうたる砂塵のために、前の車を抜こうといっても見通しがきかない。
反対車線から車がくるかこないか、まったく見えないのです。
そういうすさまじい時代でした。
たしかに国道一号線は舗装され、名神高速道路ができたような道路状況ではあったのですが、日本にマイカー時代がくるとはなかなか予見できませんでした。
こんな道路では自動車が走れないではないかと思いました。
しかし、それは間違いなのです。
道路があるから自動車が走るのではないのです。
自動車が走りだすから道路が広がるのです。
あるいは高速道路がつくられるのです。
どこまでも自動車が先なのです。
だから自動車がまさに道路をつくり、風景を変えました。
道路が広がると自動車も増える道路がどんどん広がると車は走りやすくなったのだが、車が走りやすくなれば、当然にも車は増えます。
つまり大量生産がどんどん進んで、道路の信号から信号のあいたに自動車がいっぱいつまってしまって、交通渋滞が起こる。
そうすると、いよいよ道路を増やす。
05道路の幅を広げる。
ますますそこに自動車が入ってくる。
というわけで、いたちごっこになってきます。
アメリカでよく言われることだけれども、もともと自動車というのは、非常に大きな空間を占めるものなのです。
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